Vol.34 料理家 平野 寿将さん

34_平野寿将さん
料理家 平野 寿将さん

【プロフィール】
1960年生まれ、松山市出身。78年~京都「萬重」にて修業。25歳の時には地元松山で懐石料理店をオープン。その後コンビニ弁当の仕出し会社を経営するも倒産、30歳で東京へ。鎌倉で1日1組限定の店を開店するなど話題性に富んだ店作りをする中、93年には池袋で屋台村をプロデュースし、一大ブームの火付け役となる。一躍料理界の寵児となったことでTV出演も激増、多くの店舗や商品のプロデューサーとして今なお活躍中。91年に郷土料理・懐石料理の貢献が認められ、内閣総理大臣より表彰される。現在は広島の水に惚れ込み、広島市中区富士見町で和食の店「馳走 啐啄一十(ちそうそったくいと)」を構える他、広島ホームテレビ「みみよりライブ 5up!」(月~金16:45〜)にて料理コーナーを担当。また、和食の素晴らしさを広く伝えるため、「寿将塾」主宰として後進の育成にも精力的に取り組んでいる。趣味・物欲と呼べるものはなく、愛する家族のため自宅のある東京を月に何度も往復するほどの家庭人。TV・CM出演、著書多数。



この歳になって、この業界でやっと食べていける確信がもてた。


向いている職に就けたことが才能

 幼少期から気持ちの込もった豊かな食卓に恵まれ、おかげで味覚は敏感だったと振り返る平野寿将さん。とはいえ料理の世界へ飛び込んだのは、高校をドロップアウトし選択肢が少ない中でも一国一城の主となるべく模索した結果。本格的に料理の魅力に目覚めたのは京都で修業をするうち、そしてかの北大路魯山人という存在に触れたことがきっかけでした。若くして始めた商売は隆盛あり衰勢あり。そんな中、93年に池袋で仕掛けた日本初の屋台村が大成功し多くのTV取材を経験、その後のメディアでの活躍は読者もよく知るところとなります。ただ、屋台村の成功中にも「長続きはしないな」とどこか多角的に物事が見えるのも平野さんの性分。一時は100店舗ほど経営していた飲食店も「管理していくことが楽しくない」から手を引くなど、詰まるところ料理をするのが好き、それで人に喜んでもらうのが好きというシンプルな答えに帰結したのだとか。水の魅力に惹かれ辿り着いた広島でいま思うことは、実りの多い日常、その幸せ。「最後はどんな場所でやっていても、あの人のあれが食べたいと思われる料理人になりたい」。だから決してここがゴールではありませんが、生まれてきてこの職業に就けたことに感謝する日々を過ごしています。



〝徳を積む〟ということ

 食べてくれる相手や場面が異なれば、そのシチュエーションの数だけ幅広く料理できると平野さん。例えば肉じゃがなら1000パターン。また、この国に生まれたからこそ育まれた思慮深さを皿の上に乗せられるのも、日本料理の玄妙なのだと話します。こうした精神性は、料理家・平野寿将を形作る大きな要素でもあります。実は40年にも渡り里親として多くの子供達を預かってきたご両親。そこには、〝徳を積む〟ことでいつか子や孫に良い出会いが訪れるようにとの願いが込められていたと、後に知らされます。実際、素晴らしい出会いに恵まれてきた料理家人生において、2年前には昔から尊敬するとある有名人がわざわざ東京から来店、若くして大成功したその人が来店時に残した「なぁ平野、俺は60歳の時に、あぁやっとこれで飯が食えると思ったんだよ」という言葉に、自分自身もようやくこの業界で食べていける確信を得、リタイヤのない人生が楽しみになったそう。現在、料理家を志す若手を支援する活動を続ける平野さん。ご両親の積んだ〝徳〟が自分を救ってくれたからこそ、彼らとも約束します。「もしも自分から恩を受けたと思ってくれるなら、独り立ちした後、何かを社会のために返しなよ」と。





「みみよりライブ-5up!」のコーナー「お助け料理塾」の1コマ

「みみよりライブ 5up!」のコーナー「お助け料理塾」の1コマ。家にある調味料しか使用せず、4手順までで作れるため、再現しやすいと主婦から大好評です。



平野さん自身が惚れ込んだ広島の湧き水と蔵囲い昆布(熟成昆布)を使用

「馳走 啐啄一十」では、平野さん自身が惚れ込んだ広島の湧き水と蔵囲い昆布(熟成昆布)を使用し、国内最高の旨味を引き出す出汁を提供してくれます。